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ジョン・バルビローリ
ジョン・バルビローリ 「ブラームス: 交響曲第2番」 CD
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商品の情報
| 発売日:2012年12月20日 / ジャンル:CLASSICAL / フォーマット:CD / 構成数:1 / 製造国:輸入 / レーベル:Testament / SKU:749677146924 / 規格品番:SBT1469 |
商品の紹介
| <5> "耐えられないほどの憂鬱"-ブラームスの交響曲第2番 よく知られていることだが、ブラームスが交響曲に取りかかるまでには長い時間を要した。彼の躊躇の大きな要因は、ベートーヴェンによって課せられたハードルだった。ベートーヴェンに続く作曲家はみな、交響曲を作曲するには超人的な資質を求められたのだ。しかも、ブラームスは最初、ピアノ曲を主として書いていた。交響曲の制作にむけての最初の一歩は、ニ短調のピアノ協奏曲第1番(作品15)と2つのセレナード(作品11と16)を書くことだった。交響曲第1番のスケッチはすでに1855年の段階で存在していた。しかしながら、1876年まで完成することはなかった。1877年の夏、ヴェルター湖畔のペルチャッハにて、第1番のピアノ連弾版を手掛けながら、ニ長調の第2番の作曲に取りかかった。クララ・シューマンが指揮者であるヘルマン・レヴィに宛てた手紙の中に、その頃のブラームスの様子が言及されている。機嫌がよく、避暑を楽しみ、そして頭の中だけにしろ交響曲の作曲準備が整ったことを喜んでいたらしい。 友人たちの好奇心を意識して、ブラームスは第2番の性格を正しく伝えていなかった。出版社のフリッツ・シムロックに対しては「新しい交響曲は君が耐えられないほど憂鬱な感じだ。今までこんなに悲しく情愛に満ちた作品は書いたことがない。スコアは黒縁をつけて出版しようじゃないか。」 1877年10月3日、ブラームスはクララのために第一楽章を通してピアノで弾いて聴かせた。これを聴いたクララは次のように述べている。「この交響曲が公表されれば、間違いなく第1番同様に大成功を収める。それだけではなく、その天才的で信じられないほどの出来栄えに多くの演奏家たちを狂喜させるに違いない。」初演は、ハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって、1877年12月30日に行われた。このコンサートは大成功で、ブラームスに対し懐疑的だった人々でさえも、彼の偉大さを確信せずにはいられなかった。 ヘルガ・グリューネヴァルト 2011 訳: 小林茂樹 |
| 発売・販売元 提供資料(2013/11/01) |
| <1> 「友好の再構築」の証明 - サー・ジョン・バルビローリとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるコヴェントリーでのコンサート サー・ジョン・バルビローリ (1890-1977)は、戦後のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の歴史の中で特別な役割を果たした指揮者である。楽団員にも聴衆にも大変尊敬され愛された、最重要な客演指揮者のひとりであった。イタリア系英国人の彼は、ベルリン・フィル・デビューをベルリンのフィルハーモニー・ザールではなく、英国で果たした。1949年8月、ベルリン・フィル・メンバーが戦後初めて行った海外公演、スコットランドのエディンバラでのことだった。有名なエディンバラ国際音楽祭の一環として、ワーグナー、エルガー、ルーセル、ドビュッシー、モーツァルト、バーバーの作品でバルビローリ指揮下、3公演が行われた。バルビローリが初めてベルリンで指揮をしたのは1950年の復活祭、4月9日、10日にシュテーグリッツのティタニア・パラストでであった。プログラムはロッシーニの《泥棒かささぎ》序曲、イギリスの作曲家ディーリアスの音詩《夏の歌》、ルーセルのバレエ音楽《バッカスとアリアーヌ》から第2組曲、そしてブラームスの交響曲第4番だった。 その後、バルビローリがベルリンに帰ってくるまで10年の歳月が流れる。1961年の1月、ベルリン音楽院のホールで、シベリウス、ベートーヴェン、ブラームスで三夜のコンサートを催した。これ以来、定期的な出演を果たし、演奏会の回数はトータルで84回にのぼった。最後にベルリン・フィルの指揮台に上ったのは、1970年の春だった。2月の15,16,17日のコンサートは、ハイドンの交響曲第99番、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(Vn:ピーナ・カルミレッリ)、ニールセンの交響曲第4番、20,21,22日はヴォーン・ウィリアムズのトーマス・タリスの主題による幻想曲、モーツァルトのピアノ協奏曲第9番《ジュノーム》(Pf:クラウデ・フランク)、マーラーの交響曲第1番《巨人》のプログラムだった。 バルビローリは1970年7月29日、ロンドンで亡くなった。ベルリン・フィルは彼に敬意を払うため2回の追悼コンサートを企画した。このコンサートは1971年2月11日と12日にバレンボイムの指揮で行われ、プログラムはモーツァルトのフリーメイソンのための葬送音楽とピアノ協奏曲第20番(Pf:クリフォード・カーゾン、カーゾンはバルビローリのお気に入りのピアニストだった)、ブルックナーの交響曲第7番だった。 (続く) |
| 発売・販売元 提供資料(2013/11/01) |
| <3> 1956年3月23日、エリザベス二世の手によって新聖堂の礎石が設置された。建築家バジル・スペンスの設計により、新しい建物は旧聖堂の廃墟と並んで建てられ、献堂式は1962年5月25日に行われた。ベンジャミン・ブリテンはこの献堂式のために戦争レクイエムを書き、初演は5月30日に行われた。初演時、テノールをピーター・ピアーズ、バリトンをディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが受け持ったのには特別な意味がある。すなわち、交戦国であった英国人とドイツ人による胸を刺すような反戦曲をもって鎮魂を歌い上げたということだ。 ベルリン・フィルもこの前後、特別な役割を担っていた。1961年の春、コヴェントリー聖堂の司教であるハロルド・ウィリアムズ博士はベルリン・フィルの事務局長のヴォルフガング・シュトレーゼマン博士を訪ねている。新聖堂の献堂式では、完全なる和解、平和そして友好が示されるべきであり、そのためにはベルリン・フィルが招待されるべきだというのが、ウィリアムズ司教の願いであった。この頃、ベルリン・フィルのイギリス行きは非常に難しいものがあった。第二次大戦中のドイツ軍による爆撃による爪痕があまりに生々しかったからだ。ウィリアムズ司教はすぐさまシュトレーゼマンと協力体制をひいた。シュトレーゼマンはベルリンの上院議会とボンの外務省にかけあい、上院議会と連邦政府を通して旅費を確保することにも成功した。 その結果、ベルリン・フィルは1962年6月の初頭、ついにコヴェントリーの地を踏むこととなる。そしてベルリン市とドイツ連邦共和国からの贈り物として2回のコンサートを開催した。6月5日の初日はオイゲン・ヨッフムがベートーヴェンの交響曲第7番とブルックナーの交響曲第9番を演奏し、翌6日のコンサートをサー・ジョン・バルビローリが指揮しヴォーン・ウィリアムズ、ハイドンとブラームスの作品を演奏した。残念ながら、このコヴェントリーでのバルビローリのコンサートのうち録音として残っているのはブラームスの交響曲第2番だけである。 ヴォルフガング・シュトレーゼマンは他の企画にも尽力している。コヴェントリーで初演された戦争レクイエムの第2回目の演奏をベルリンで行うことを決定した。その結果、1962年11月18日の「国民哀悼の日」(訳者注:戦没者ならびにナチスの暴力支配の犠牲者を追悼するドイツの記念日)に、ベルリン・フィルはコリン・デイヴィスの指揮でベルリン音楽院のホールでこの作品を演奏した。ソリストは、エラ・リー、ピーター・ピアーズ、ヴァルター・ベリー、合唱は聖ヘドヴィヒ合唱団で、この演奏会には作曲者ブリテンも出席した。ヘルベルト・フォン・カラヤンも翌3月8、9日の新フィルハーモニー・ザールでの初めてのシーズンで戦争レクイエムを再度取り上げた。ベルリン・フィルのコヴェントリーでの演奏会や戦争レクイエムを取り上げた演奏会は、芸術的催しとは一線を画している。ウィリアムズ司教の演説で強調されたように「最も高潔な音楽による神への献納」だったのである。 (続く) |
| 発売・販売元 提供資料(2013/11/01) |
| 平和を象徴するコヴェントリーでのBPO公演ライヴ!何とブリテン自作自演"戦争レクイエム"初演の一週間後の記録! ドイツとイギリスの間にできた不幸な傷あとを払拭すべく、1962年に完成した大聖堂の献堂式の一環として開かれたコンサートにベルリン・フィルが招聘。忘れえぬ友好の証の貴重な記録。BPOから信頼を勝ち得ていたバルビローリだからこそ成し得た名演!一期一会の稀少な音源です。 |
| タワーレコード(2013/10/25) |
| <4> シュトレーゼマンは後にこのときのことをこう書き残している。「コヴェントリーでは本当に色々なことがあった。当時、被害を受けていないホテルはひとつしかなく、メンバーの大半は私的に個人宅などに泊まっていた。それでも言語上の問題を感じるどころか、受け入れ先の人々との友好関係を築き、さらには多くの歓迎を受けることとなった。会話の中には常に空爆の被害が語られ、我々にとっては厳しい言葉も発せられたが、和解と人類の一致団結という理念は貫かれていた。オーケストラ、もしくはベルリンを代表して返答することは簡単ではなく、私はただただこの環境下での招待に対する感謝を述べるばかりだった。そしてこの演奏旅行を可能にした音楽の力にも感謝した。」 (W. Stresemann, Zeiten und Klange, 1994, p.286f.) ベルリン・フィルのコンサートは第二回の招待を受けるほどの大成功だった。こうして1964年1月28日、オーケストラはオイゲン・ヨッフムとともにコヴェントリーを再度訪れた。大聖堂で行われた歓迎レセプションにおいて、シュトレーゼマンは特別なものを寄贈された。それは、大聖堂の廃墟の整理作業中見つかった銀メッキの釘で作られた十字架だった。8年後、1972年7月1日、ベルリン・フィル3回目の同市訪問が行われた。この時の指揮者は、ダニエル・バレンボイムであった。 (続く) |
| 発売・販売元 提供資料(2013/11/01) |
| <2> バルビローリがベルリン・フィルと探求したレパートリーは、J.S.バッハからシェーンベルクまで広範囲に及んでいる。このレパートリーには、バルビローリが最も愛したベートーヴェン、ハイドン、モーツァルト、ブラームスという古典派を代表する作曲家が含まれている。もちろん、フランス作品(ベルリオーズ、ドビュッシー、ルーセル、サティ)やイギリス音楽(ブリテン、ディーリアス、エルガー、ヴォーン・ウィリアムズ、ウォルトン)、さらにはバーバー、ヒンデミット、フランク・マルタンといった得意とした現代作品も取り上げた。ナチスの政策により「頽廃音楽」と見なされて以降、ベルリン・フィルのメンバーにマーラーの音楽を身近なものと感じさせたのはまさにバルビローリだった。マーラー作品は、1933年から1945年まで演奏が禁止されていた。ベルリン・フィルは、第7番、第8番と未完の第10番のアダージョを除き、すべての交響曲をバルビローリと演奏している。1963年、交響曲第9番のスタジオ・レコーディング(EMI 5 679252 2)が行われた。この録音は、現代においても同曲最高の名盤とされている。近年テスタメントは、バルビローリとベルリン・フィルのマーラーを3種リリースしている。ジャネット・ベイカー、マリア・シュターダー、聖ヘドヴィヒ大聖堂合唱団による第2番《復活》のライヴ盤(SBT2 1320, 2 CDs)、ルクレツィア・ウェストと聖ヘドヴィヒ大聖堂の女声及び少年合唱団との第3番(SBT2 1350, 2 CDs)、そして第6番(SBT 1342)である。 融和の象徴としてのベルリン・フィルと「音楽による神への献納」 聖マイケル教会としても知られる、コヴェントリー大聖堂は英国国教会コヴェントリー教区の主教座聖堂であり、元々は14世紀末から15世紀初頭にかけて建立された。建立当時はイギリス最大の教区教会であった。コヴェントリー教区の創設と併せて、1918年に大聖堂の称号を与えられる。コヴェントリーは航空機のエンジン製造の拠点だったため、第二次世界大戦では戦略上最重要な攻撃目標となった。1940年11月14日、ドイツ空軍の急襲で壊滅的な被害を受ける。大聖堂周辺の4,000戸にのぼる家屋が破壊され、600人の死者が出た。1941年4月8日、再度ドイツ空軍の空襲が行われ、死者1,236人負傷者1,746人の大被害となった。 かつて威容を誇った大聖堂も尖塔と外壁だけの姿となった。1940年のクリスマス・イヴのミサは有名で、廃墟の中、リチャード・ハワード司教は人々にこう呼びかけた。「さらに思いやりのある世界を作りましょう。それは、簡単なことではありません。ですが、復讐心を追放するのです。」最初、ハワード司教は梁が焼け落ちた黒く焦げた木材で十字架を作った。今日でも旧聖堂の廃墟の中にこの十字架は設置されている。その後、梁や根太などに使われていた釘で十字架が作られる。これが有名な「コヴェントリーの釘十字」である。この釘十字は現在、新聖堂の祭壇に設置されており、「友好の再構築」「平和」のシンボルとなっている。今では、宗派を超えた世界中の160以上もの教会がこの「釘十字」のもと協力して活動を行っている。 (続く) |
| 発売・販売元 提供資料(2013/11/01) |
収録内容
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・構成数 | 1 ・合計収録時間 | 00:44:00 ・録音 | モノラル ・収録曲 | 【曲目】 ブラームス: 交響曲 第2番 【演奏】 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 サー・ジョン・バルビローリ(指揮) 【録音】 1962年6月6日 コヴェントリー新聖堂(ライヴ) モノラル 1.CD
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